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黒菱山荘の半世紀 [2]

同窓会副会長・黒菱山荘委員会委員長 浦川伸一(高校32回)

2.山荘建設

 昭和39年の校誌石神井に、山荘建設に尽力された黒崎先生が、建設に至る経緯を実に丁寧にまとめていらっしゃったので、ここにその一部分を引用させていただく。

 「いつごろからであったか思い出せないが、とにかく私の周囲に十名内外の山の好きな仲間ができていた。 何々山の会などといういかめしい名称も、うるさい規約もない、自然発生的にできたグループである。 それでも年間を通じ何回かの山行を行なったし、種々の係りも時々に応じて当を得て決まったものである。 メンバーは石神井の卒業生とその他半々で「だれかがさそえばすぐにまとまり、無理算段をしてでも出かけて行く」といった気軽な山仲間である。 したがって山行も激しい闘争心をかき立てる種のものではなく、ひょうひょうとした四季の尾根歩きやスキーツアーを主としたものであった。 (中略)
 そのグループの山行に必ず組み込まれるのが冬の八方尾根と春の八甲田のスキー計画であった。 年越しの八方尾根、滑りおさめの八甲田はその日時までが毎年同じように行われた。(中略)
 山小屋設立の候補地として八方尾根黒菱を選定したのは昭和三十二年の秋である。 黒菱はそのグループや本校の山岳部が毎冬訪れるところであったし、数少ない山スキーのメッカと言われていた所である。 スキーは温泉・リフトのあるゲレンデがあってこそと考えている人々にはほとんど知られず、山が好きでたまらない人々のみが、ひっそりと山と雪に親しんで来た所であった。 そこのよさを話しても、スキーではベテランを自負する人さえ鼻もひっかけようとはしなかった。 三時間も雪の山を登り、電灯もない山小屋が一軒だけポツンと雪にうずもれてあるような所では洗練された神経の人には無理もなかったことかもしない。 その年の暮れから三十三年の正月にかけて例のごとく黒菱を訪れた帰り、正月の五日の夜、ふもとの細野部落(現在の白馬村)にある丸山与兵衛氏の宅で最後のコンパを行った。 丸山氏には前々より種々のめんどうをかけ、お世話になって居た。丸山氏をかこみ久々に風呂に入って怪気談をあげている時、山小屋設立の敷地の相談をしたところ、丸山氏も大賛成をしてくれ、その部落との交渉をひきうけてくれた。」

 長い引用となったが、ここまでが山荘設立のきっかけであり、このあと黒崎先生らは、山岳部および山岳部OBに相談し、共同計画で建設をすすめることとなった、と記してある。その後、当時の松木校長に相談され、山岳部OB会らの協力のもと、学校施設として建設する見込みがたち、昭和36年7月に竣工式を行うまでに至ったそうである。

 竣工式を迎えた時の感慨を、黒崎先生は次のように記されている。

 「七月二十五日には手崎会長、畑山校長の参列によりおごそかに竣工式が行なわれた。 こうして黒菱山荘は完成した。この間、どれほど多くの人々の熱意と善意の行為があったことだろうか。 松木前校長の先見、畑山現校長の積極的な生徒指導理念と実行力そして私ごときのものに建設事務連絡をおまかせ下された土屋校務主任、 何かと細かい心配りで、建設の便宜を計って下さった、若菜、渡部、田中、石木の諸先生方、 時々感情的に参ってしまうのをはげまして下さった水谷先生、そして学校の先生方全員の理解ある御協力、 後援会の会長を始めとする方々の熱意、そしてまったく表面に現われることなく黙々として文字通り縁の下の力持ちぶりを発揮して下さった 山の仲間や山岳部OBの諸君、丸山与兵衛氏の並々ならぬ御厚情……黒菱山荘はそういったあがない難いものの結晶なのである。」

 その竣工式が行なわれた日から生徒の夏山教室が開始され、以降長きに亘る石神井の伝統の一つが始まったわけである。山岳部OBで、山荘の設計者でもある千賀氏(高校6回)が、昭和63年の校誌石神井で以下のように記している。

 「今でこそ、黒菱山荘まで、きれいに舗装された林道があり、車ですぐ登ってしまいますが、当時はケーブルだけで終点の兎平から建物の柱やセメントの資材を人の背を借りて荷上したものでした。 鍋・釜類や寝具なども同じようにOBの力を借りて荷上され、『プラスチックの食器では食べた気がせん。俺に任せろ。』と重い瀬戸物を背負って頑張った男もおりました。」

 黒菱山荘はまさにこうした石神井高校を取り巻く人達の絶大な熱意の総意で建てられたのである。

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画像は全て拡大します S51年5月:山荘 S51年5月:山荘 S59年5月:対岳館 S59年5月:対岳館 写真 落成記念の手拭 落成記念の手拭