高校第一期生の思い出話

   高 味 裕 (最初にお断り致しますがこれはあくまでも私個人の経験、感情です)

私達の母校石神井高校は昭和15年(1940年)、現青山高校の所に仮校舎で東京府立第十四中学校として誕生したのが始まりです。 
ですから今年で70周年になります。

この開校した昭和15年という年は当時の日本にとって大変重要な意味を持つ年だったのです。(私は小学校4年生) その頃日本は
年号に昭和と共に皇紀という日本独自の年号を使っていました。 
これは第一代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を皇紀元年とするもので、日本の歴史上の出来事は総て皇紀で表記されて
いました。 例えば今は平安京が出来たのは“ナクヨうぐいす平安京”、即ち794年と西暦で覚えるのに、我々は“新しい都へヒヨゴシ
(引越し)即ち1454年と覚えさせられたのです。 (794+660=1454)
そしてこの昭和15年は皇紀2600年に当たったのです。 (1940+660=2600)

これが当時日本を支配していた軍国主義を鼓舞する格好の材料となりました。 即ち日本は開国以来2600年を誇る世界一古い国で、
万世一系の天皇が統治する世界一の神国であると、11月10日皇居前(当時は宮城前といった)で天皇、皇后両陛下ご臨席のもと
紀元二千六百年式典が多数の軍官民出席して盛大に行われました。 

このように国家を挙げての祝事に奉祝歌も作られて日本中が ♪紀元は二千六百年、あゝ一億の胸は鳴る♪ と歌ったものです。 
現在70歳を越える方々は必ず歌った事がある歌です。 因みに日本の名機ゼロ戦はこの年に製造された事に由来します。

この意義ある年に色々な奉祝記念事業が行われましたが、その一端だったのか、この年に府立13中から19中まで実に7校
(前後の3年間だと10校)の府立中学校が開校しました。 こうして何か時代の申し子のような形で我等の母校が誕生したのです。

翌年東京府立石神井中学校と改称され、(この時総てのナンバーがついた府立校が改称された)更にその翌年1942年6月8日、
現在地の新校舎に移転しました。 先輩に聞くと何でも青山から全校生が隊列を組み行軍して新校舎へ移動したそうです。

翌年の昭和18年(1943)東京都立石神井中学校と改称され、
正にその年に我々同期250名が入学しました。 
ですから我々は中学として4期生で、5クラスに分かれて
いました。

私達が入学した頃の周辺の様子と言えば、武蔵関駅から
学校までの通学路は舗装されておらず学校までの間に
道に面した民家は5軒くらいしか無かったと思います。

駅から石神井川の木橋を渡り、踏み切り渡って左に曲がり、
東京女子学院(当時は芙蓉高女という小さな女学校)
に沿って右に曲がりながら坂を上がった右側は広々とした
一面の畠で、その中に木立を背負った農家が散在しており、
冬は麦踏 (*注1)、春はヒバリのさえずりが聞かれました。

 (*注1:麦踏:厳寒の朝霜柱で根が持ち上がった麦を一株づつ踏んで根を固定する大変な農作業。温暖化が進んだ今日では
      考えられないような風物詩)

当時から広さが定評だったグランドの周囲は殆ど畠で、冬には裾野まで雪を被った富士山がクッキリ見えたものです。 
正に大自然満喫の立地と言えば聞こえが良いですが冬は通学路に霜柱が立ってドタ靴は泥だらけ、ひと度雨が降れば泥んこの
ぬかるみ道、春は関東ローム層の土埃が太陽を隠し、草むらからは蛇も出てきて今では想像もつかない環境でした。

平成19年12月2日、母校から新校舎落成祝賀会のご案内を頂き
実に卒業以来58年ぶりに武蔵関の駅を降り母校を訪れました。 

かっての通学路の変貌にも驚きましたが、新装なった鉄筋4階建て
エレベーターもある校舎の偉容に驚嘆しました。 

一般教室のほかに、調理室、保健室、図書室、パソコン室、プール、
視聴覚ホール等々我々在学中には想像もつかない設備は驚きと
羨望の連続でした。

我々が学んだ校舎は写真のように木造2階建て、勿論冷暖房の設備などなく特に冬の寒さはこたえました。  
  (写真提供 真家俊雄 高校1期生 同期会世話役)

普通高校生活は3年間ですが私達の年度は変革期に当たり石神井で5年乃至6年過ごしました。即ち旧制中学5年を終え
大学予科へ行った人と旧制中学5年から新制高校3年に編入された人に分かれ、私は後者で本来浪人する所幸い新制高校の
3年生になる事が出来ました。 (結局は1年後新制大学1年生で一緒になりましたが)

何れにしてもその中学生活5年のうち、実に前半の2年半の間は戦争と共に過ごしました。
年齢で言えば12歳から14歳の多感な少年期を苛酷な戦争に巻き込まれていたのです。

入学した中学には、どこの中学もそうですが
配属将校が常駐し毎週何時間か軍事教練が
必修で、「気をつけ!」「敬礼」を毎日のように
繰返していました。

時には富士の裾野へ廠営(しょうえい)といって
木銃担いで2〜3日実戦演習に出かけた事も
あります。 

廠営:廠舎(軍隊が演習先などで泊るための
四方に囲いのない屋舎)に宿営する事
 ・広辞苑より

持っている棒は銃剣を装着した銃を模した木銃
後の丸いわらぶき屋根の建物が粗末な廠舎(宿舎)

昭和16年(1941)12月8日、ハワイ真珠湾攻撃の華々しい戦果で始まった太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言っていた)は
それなりに軍国少年の血を沸かせ、心を躍らせていましたが、翌17年の6月5日ミッドウェー海戦の敗戦で主力空母4隻と
全艦載機を失って戦争の主導権を奪われ、以後確実に敗戦への道を歩き始めます。 

南方へ余りにも戦局を広げすぎた日本は制空権も失って次第に追い詰められ、19年7月サイパン島が遂に陥落しました。
こゝが敵の手に落ちたことによりB29の襲来が始まりました。 
始めは単機での襲来でしたが、南方洋上から富士山を目標に北上、富士を基点にして実に正確な進路を取って東京の西方
から侵入、高度1万メートル、高射砲も届かず、戦闘機も追いつけぬ高速で東方へ飛んで行きました。 
その航路は毎回我々母校の真上で偵察飛行を続けていたのでしょう。 日本が誇る霊峰富士が実はこれから日本各地で
何回も起こる空襲の為の最高の道しるべだったなんて何という皮肉でしょうか。

そして11月24日、遂に学徒工場動員令が発せられ、我々学年の半数が三鷹の中島飛行機製作所へ、私達残りが田無の
大日本時計(後のシチズン時計)へ配属されました。 
所が正しくその日、B29数編隊により中島飛行機が爆撃されました。 
これが本土空襲の始まりでこの後日本の軍需産業の地は殆ど無抵抗のまゝ1トン爆弾の洗礼を受けることになります。
三鷹に近い母校の周辺にも爆弾が落ち、泥と野菜の葉っぱが木造校舎の壁にへばり付いていた光景は忘れることが出来ません。

年が明けた20年戦況がいよいよ逼迫してきた3月10日、300機に及ぶB29が深夜に東京を襲い低空から下町を焼夷弾攻撃、
10万人に及ぶ民間人の犠牲者が出ました。 大火災による上昇気流は1万メートルにも達したとも言われています。
そしてこの後日本の主要都市は次々に焦土化してゆくのです。

同じ3月太平洋上の最後の砦、硫黄島が陥落。 これによりP51小型機の来襲が始まりました。
この頃から三鷹の中島飛行機は分散的に生産体制を淺川(今の高尾)の地下工場に疎開、我々仲間も淺川へ
通うようになりました。

4月13日・15日、1日空けて2回にわたり2度目の東京大空襲。 
池袋の私の家も13日被災し、着のみ着のまゝで焼け出されました。

その4月、米軍は沖縄へ上陸。 連日神風特攻隊の壮挙を報じていました。

5月25日、470機のB29大集団による3度目東京大空襲。 東京の約半分が焦土に。

戦局も終盤にさしかかった昭和20年6月、大日本時計が地方に疎開したため我々の動員先が中島飛行機に変り、
既に派遣されている半分の仲間と合流しました。 

今登山の山として高尾山が大変人気がありますが、そのJRの下車駅「高尾」は当時「淺川」という駅でした。 
その駅の南側の小高い幾つかの山の中に転属させられた中島飛行機の工場がありました。 
山の中腹に横穴を掘りその坑道のような所に機械を並べて作業をしていましたが、裸電球の傍から湧き水が
ボタボタ落ちてきて足元もビチャビチャ、とても地下工場などと呼べる代物ではありません。 
こんな事で戦争に勝てるのかと暗然となった事を覚えています。 

しかしその他の事は全く記憶がありません。 要するに何もする事無かったのです。 
毎日長時間電車に乗り、時間をかけて仕事場へ行っても事務所に座って時間が経つのを待ち時間がきたら帰る、
そして本来なら夏休みである8月に入ってもそんな無為な生活を続けていたのです。 
結局受け入れ側も我々にやらせる仕事も無く持て余していたのではないでしょうか?

8月6日広島、9日長崎に原子爆弾が投下され、そして8月15日を迎えます。 天皇陛下の玉音放送を淺川の林の中で
蝉時雨と共に聞きました。
でも感度の悪い雑音だらけラジオ放送に加え中学生には難しい言葉ばかりで何の事だかにわかに理解できませんでした。 
終って大人達が「負けたんだ」とひと騒ぎしているのを見てそうなのかな?と思った程度で余りにもあっけない幕切れでした。

日本は神国だ! 必ず神風が吹いて勝てると信じきっていた私を含め日本人国民はその落差にしばらくは虚脱状態
だったことは間違いありません。

個人的な事ですが空襲で焼け出された後は着の身着のままで市内の各所を転々としました。 
当時長兄は中国に出征中、次兄は北大在学中で札幌に、弟は宮城県の鳴子に集団疎開で私は父母と3人で東京に
いましたが、あの頃食べるもの着る物など親はどれだけ苦労したか本当に大変だったと思います。 
勿論私だけでなく日本の国民全部が当てのない困難に耐えていたのです。 

私の親友は高田馬場で罹災し、止むなく宇都宮へ転居したのに又焼け出されるなど悲劇は枚挙にいとまがありません。 
結局その友人とはその後二度と会うことはありませんでした。 

中学へ入学した時250名いた仲間も戦災、疎開その他の理由で東京を離れ、戦後一部の人は石神井に戻っては来ましたが
結局中学5年終了時にいたのは150名、実に100名の学友を失ったのです。
報われる事のない苦労を重ねた本当に思い出したくない悲劇の時代でした。

20年8月30日、ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書の調印
によりアメリカ占領下の生活が始まりました。 
空襲警報も鳴らず一晩ぐっすり寝れることがどれだけ嬉しかった事でしょうか? 
しかし前にも増して大変な食糧難、発疹チフス流行など苦難の時代はまだ続き、価値観もゆらぎ落ち着いて勉強できる状態
ではありませんでした。

そんな中学生活も4年生ともなると本来の学校生活に戻り、スポーツも盛んになってきました。
野球が好きな仲間が集まって軟式野球チームを作り、対校試合なども行うようになっていた頃、放課後校庭で練習に励んでいた時、
1匹の野兎が林からグランドへ飛び出してきました。 
我々は夢中で追いまわしましたが、一人が投げたボールが顔面に当たり可愛そうに兎はその場にコロリ。 
何しろ食べ盛りの面々、用務員さんにさばいてもらい、皆で夕食会を楽しんだ事を思い出します。
          
          

これが中学4年秋の運動会の写真です。(21・11・10) 
男子校の運動会なんて本当に殺風景でした。

左は私が2000m中距離走で1位ゴールした時の写真 手前味噌の写真ですみません。 何しろこれしかないものですから。
右はその時各部対抗リレーの野球部選手 右から投手・主将の岩本君、仲村君、私、そして親友の酒井君。 何れも
酒井君の父君が撮って下さいました。

この軟式野球チーム、やがて本格的な硬式野球を始めようと野球部を結成しました。 私はキャッチャーでホームベースを
守っていました。
然し初めて硬球を受取った時の硬さ、痛さに思わず顔をしかめた事をよく覚えています。 バットで打ってもバットの芯を外すと
しびれるような痛さが手に伝わってきます。 その位硬式と軟式とでは基本的に違っていました。

そんな我々を指導して下さったのが中学1期生で東大野球部員でもあった加藤淳一郎さんです。
先輩はそれこそ毎日放課後グランドに現れ熱心に指導して下さいました。 我々もその熱意に応えるべく暗くなるまで練習に
励んだものでした。
私事ですが当時私は戦災のお蔭で渋谷から今は無き玉川電車の真中(現半蔵門線の駒沢大学の辺り)に住んでおり、どうかすると
通学に2時間かかる事は練習終って帰るのが大変な痛苦でしたが、チームメートのセカンドを守っていた親友の酒井君が
矢張り戦災で偶然にも私の駅の二つ先の弦巻に下宿しており、一緒に通えた事がどれだけ心の支えになった事でしょうか。 
その酒井君も2年前他界しました。 悲しかったです。

そして中学5年になり、いよいよ第29回全国中等学校野球大会に挑戦です。  (結局これが最後の中等学校大会で翌年から
全国高等学校野球選手権大会となります)
当時初参加で無名の石神井は先ず3部から勝ち上がらなければなりません。 それでも2勝して2部に昇格、更に2勝して有名校が
ひしめく1部に昇格しました。 
1部では初戦明治学院に快勝しましたが、2戦目で日大三中(今の日大三高)に敗れ私の石神井での青春は終りました。

数年前高校野球の東京大会の開会式が神宮球場で行われ、式後の開幕試合に石神井高が当たった事がありました。 
母校が学生野球のメッカ神宮球場でプレーするなど滅多にない事と往時の仲間も集まって観戦に行った事があります。 
試合はコールドゲームの大勝でしたが名球場での後輩の活躍が何と晴れがましいものだった事か無上の喜びでした。 
我々はネット裏の上段に集まって見ていたので勝利に沸く後輩達に声も掛けられませんでしたが、こうして見えない所で応援している
先輩も多くいる事を現役の諸君は覚えておいて欲しいものです。

この度新校舎の落成に合わせてグランドも整備されたと聞きわざわざ見に行きました。 
大きなバックネットやスプリンクラーまで設置され、我々が練習したグランドとは格段の立派なグランドです。 
是非練習に励みよい成績を収めて石神井高校野球部の伝統と名声を上げて頂きたいと思います。

こうして中学5年も終り約70名の友が石神井を去り、私は残った約80名と共に東京都立新制高等学校の3年生に編入されました。 
下がその高校1期生80数名全員の貴重な写真です。
        
        私は最後列左から3番目にいます。

何遍も言う通りこの1年間が私の高校1期生としての生活になるのですが、仲の良かった友も減り、のんびり屋の私も流石に
少し身を入れて受験勉強に終始しました。 
お蔭で翌年大学入試には合格しましたが、これが高校3年生1年間の総てです。
石神井での激動の5年間が高校3年に集約されたものだと思っております。
どうか勝手な解釈をお許し下さい。